[episode12]黒板消しの白い跡
- mam
- 7月26日
- 読了時間: 4分
卒業式が終わったあとの教室は、静かだった。生徒たちは式を終えるとすぐに帰ってしまい、教室にはもう誰もいない。春の光が差し込む黒板の前で、蓮はひとり立ち尽くしていた。
蓮は中学3年生。病を抱え、高校への進学をあきらめた。入退院を繰り返すなかで迎えた卒業式。式への参加はできなかったが、放課後にこっそり母に付き添われて学校を訪れ、誰もいない教室にひとり戻ってきたのだった。母は色々と手続きがあるらしい。しばらくひとりで待つように言われた。
教室の黒板には、誰かの「ありがとう」の文字が残っている。
蓮はチョークを手に取ると、その横に自分の文字をそっと書き足した。
──先生のことが、好きです。
書いた直後、胸がいっぱいになって、すぐに黒板消しを手にした。
何事もなかったように、その言葉を消してしまった。
ずっと、誰にも言えなかった。
浅倉先生を、3年間、ずっと好きだった。
1年生の時、廊下でうずくまってしまった自分を見つけ、背負って保健室まで運んでくれた。それから気にかけてくれて、やっと担任になった3年生、休みがちではあったけど、登校できるときはなにかと助けてくれた。
病弱だから というだけではなく、先生とはいろいろなことを話した。なんでも話せるくらいに仲良くなったけれど、どうしても言えないことがあった。
先生のことが、好きだって気持ち。
SNSの匿名アカウントで、先生への想いを誰にも知られないように綴っていた。
性別も病気のことも書かなかった。たまたま見かけた人が、応援の言葉をくれたりした。でも、それも嘘みたいに感じていた。
“先生の隣に並べる誰か”に、自分はなれない。
教師と生徒だから
同性同士だから
何より、
自分はもう、… 。
だから。
ただ、最後に気持ちを残したかった。
それだけだったのに──。
──蓮くん。
名前を呼ぶ声がして、振り向くと、そこに先生がいた。
教室の扉のそばに立ち、まっすぐこちらを見ていた。
春の日差しの中、優しい光に包まれるようにして。
「先生……?」
声がかすれる。
先生が歩いてくるたびに、胸の奥がざわめく。
「……夢か」
蓮はようやく気づいた。
自分が今、夢の中にいることに。
卒業式のあの日。
春の教室。書いて、消したはずの言葉が、黒板に再び浮かび上がっていた。
──先生のことが、好きです。
その文字を、先生も見ていた。
ゆっくりと目を細め、蓮のほうに振り返る。
「……卒業式からしばらく後、一度だけ… お見舞いに行ったけれど、君の意識はなかった。でも、先生が君の名前を呼んだとき、少しだけ指が動いたって、お母さんが言ってた」
蓮の目が見開く。
「俺の声が聞こえてたのか、どうかはわからない。でも、……俺は、あの時、君に会いに行ってよかったと思ってる」
先生の声が、優しく教室に溶けていく。
「わかってるよ。……ありがとう、蓮くん」
蓮の喉がつまった。
伝えたかった想いが、夢の中でようやく届いた。
そして、教室の外から、足音がふたつ響いてきた。
「ここ…かな」
長耳の少年──アオが歩いてくる。
「この子が夢主か……ずいぶん静かな夢だな」
隣で大人の男──モモが小さく呟いた。
アオとモモが扉の前で立ち止まると、蓮はそちらに顔を向ける。
「……ああ、やっと来てくれたんだね」
「蓮くん、これが君の“いちばん大切な記憶”だね」
アオの声は、春の風のように柔らかかった。
「……これでよかったんだと思う。伝えられて」
蓮は、先生の姿を見つめる。
そして静かに目を閉じた。
春の教室が、柔らかな光に満たされる。
黒板の言葉がゆっくりと消えていく。
──先生のことが、好きです。
けれど、もうそれを声にする必要はなかった。
アオがそっと手を差し伸べ、蓮の肩に触れる。
「大丈夫。君の言葉、ちゃんと届いたよ」
蓮の姿が光にほどけて、教室の空気とひとつになる。
残されたアオとモモが、静かに佇んでいた。
「……報われないってわかってても、伝えたい想いってあるんだね」
アオが呟いた。
「それが恋ってもんさ。名前も、姿も、未来もない相手に心を預ける。それでも好きだって思えるのは、奇跡みたいなもんだよ」
モモの声に、アオが小さく笑う。
「先生はさ、覚えていてくれるかな……」
「さあな。でも忘れられないだろ。それにあのとき、夢の中で確かに気づいたはずだ。あの子が何を願っていたかを」
「うん。夢は繋がっているからね。あの子と先生は… この夢で繋がれたんだ。」
ふたりは静かに教室を出ていく。
もうすぐ春が、すべてを塗り替えていく。
でもあの日の教室の片隅には、
まだ消えきらないチョークの跡が、白くかすかに残っていた。
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