[episode16]忘却の白い闇
- mam
- 8月7日
- 読了時間: 4分
白川一誠(しらかわ いっせい)は、病室の窓辺に腰かけていた。曇りガラスの向こうで風が揺れる。蝉の声がかすかに聞こえ、季節が夏であることだけは、なんとなく理解できた。
ただ、それ以外のことが、よくわからない。
目の前で笑っているのが誰か。そもそも自分が、ここにいる理由さえも。
「……お父さん、今日も来たよ」
優しい声がする。
若い女性。笑ったとき、目元が誰かに少し似ている気がした。
でも、「誰」に似ているのかも、彼女の名前さえも思い出せない。自分が彼女をどれほど愛していたかさえも。
それでも、手を握られると、少し安心する。じわりと、心の中に染み込んでくる何かを感じることができるから。
*
「ここ、どこだ……」
目を開けると、そこは白い霧に包まれた庭園だった。
背の高い木々と、咲き乱れる白い花。それらが揺れている。
その中に、ふたりの姿があった。ひとりは兎耳の少年。もうひとりは黒い毛並みの獏。
アオとモモ。夢の番人。
死にゆく人の魂に触れ、「いちばん幸せだった記憶」を探す者。
「あなたの最期の夢に、訪れました」
「夢……」
白川はゆっくりと頷いた。頭の奥が、重たい霧に包まれているようだった。
「あなたの“いちばん幸せだった記憶”を、探しています」
アオの声に、白川は困ったように目を伏せた。
「……覚えていないんだ。何もかもが、遠い。霞がかかっていて……名前も、顔も」
そのとき、モモがふっと目を細める。
「でも、感じるよ。芯の奥に、何かが残ってる。とても古い記憶……色も匂いも、澄んでる」
瞬きする間に漠は大人の男性の姿に変わり、その指先が宙をなぞると景色が静かに切り替わった。
*
そこは、夕暮れの中学校の裏庭だった。
蝉の声が遠ざかり、薄紅色の空が広がる。
フェンスの影に、ふたりの少年がいた。
ひとりは若き日の白川。もうひとりは、彼と肩を並べる少年――名を、相良(さがら)といった。
白川は、当時その少年に、言葉にできない想いを抱いていた。
仲の良い親友。誰よりも信頼していた相手。だからこそ、恋と呼ぶには遠すぎて、近すぎた。
「なあ、一誠」
「ん?」
「もし大人になって、どっちも結婚できなかったらさぁ、一緒に住もうぜ!きっと楽しい」
冗談のように、でも本気のように笑う声。
それに応えるように、白川も笑っていた。
あのとき、本当はすぐにYESの返事をしてしまいたかった。
誰よりも君と一緒にいたい。ただ、ずっと一緒にいたい―それだけだった。
でも、言えなかった。
言えば、なにかが壊れてしまいそうだったから。
*
再び、場面が切り替わる。
今度は、色あせた写真のような景色。
病院のロビーで、若き日の白川が、ひとりの女性と話している。
彼女が、後に白川の妻となる人だった。
「……いいの? 私、知ってるのよ。あなたが昔、大切に思ってた人のこと」
「……どうして」
「アルバムを見せてくれたことがあったでしょう。その人のことを話してくれる貴方は、とても優しい目をしてた。……ただの友達に対するそれとは、違っていたわ」
女性は微笑んだ。
「だから、それをわかった上で…YES。私は、貴方と一緒に未来を見たいの。胸に残した想いがあっても構わないわ。貴方は…どう?」
その言葉が、白川の心の奥に届く。
かつての想いも、本物だった。
そして、彼女と築いた日々も、本物だった。
*
霧が晴れるように、白川の視界が開けていく。
夢の中で、彼はアオとモモに微笑んだ。
「……思い出したよ。私は、愛していたし愛されていた。……ありがとう、これで… 旅立てる」
その言葉とともに、遠くから誰かが手を振っている。
それは、若き日の相良と、妻の姿が重なったような光。
白川は静かに歩き出す。
恋も、家族も、そのすべてが、自分だったのだと受け入れて。
*
月の庵。アオとモモが、湯気の立つ茶碗を前に座っている。
「忘れてしまうこともあるんだね。でも、あの人の中にちゃんと残ってた…」
アオの言葉に、ほっとしたようにモモが微笑む。
「記憶って不思議だよな。失くしたようでも、心が覚えてる」
「……彼の人生、やさしかったね」
静かな夜。小さな灯りが揺れていた。
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