[episode25]未完成のキャンバス
- mam
- 9月1日
- 読了時間: 2分
アトリエの窓から射し込む光が、柔らかく埃を照らしていた。木の床には絵の具が飛び散り、キャンバスの白さが時の流れに黄ばんでいる。
そこに佇むのは、少しくたびれた姿の青年――小林隼人だった。
夢の主の記憶が形作る場所。アオとモモは、その中心に導かれるように立っていた。
「ここは……」
アオが辺りを見渡す。壁に立てかけられた何枚もの絵。
そのどれもが未完成で、筆致の途中で時が止まったかのようだった。
そこへ、もうひとり、青年の姿が現れる。
薄い絵の具の香りと共に、柔らかな眼差しをした青年――咲夜だった。数年前にすでに他界しており、隼人の記憶にだけ生きている。隼人と共に描いた日々の記憶、その象徴として現れた存在のようだ。
「咲夜……」
隼人の声が震える。名を呼ぶだけで空気が色づき、愛しさで満ち溢れる。
世間に許されなかった想い、誰にも言えなかった熱。その絆が、今もなお隼人の胸に残っているのだろう。それはアオとモモにも伝わるようだった。
モモが小さく呟く。
「……すげえな。こんだけ深く、強く想い合ってたのか……」
その声にはからかいではなく、どこか羨望にも似た響きがある。
アオは一枚のスケッチブックに目を留めた。
表紙は擦り切れて古びているが、中を開けば咲夜が描いた隼人の横顔が幾度も現れる。柔らかい筆致で、愛しさを隠そうともしない絵。
アオは息を呑み、そっと撫でるようにページをめくった。
その仕草を見て、モモは肩をすくめながらも笑った。「……お前、好きだろ、こういうの」
アオは答えず、ただ小さく頷いた。
そのとき、咲夜が隼人に手を差し伸べる。光が二人を包み込む。
咲夜を失ったことで筆をもつこともできなかった空白の時間も、言葉にできなかった想いも、今ようやく埋められるように。
「隼人……」
「咲夜……」
呼び合う声は重なり、溶け合い、やがて眩い光となってアトリエを満たした。
二人は互いに寄り添いながら、その光の中へと歩み出していく。
残されたのは、机の上に置かれたスケッチブックだった。
夢の終わりと共に本来なら消えるはずのそれを、モモは指先でつまみ上げる。軽く笑いながら言った。
「お前が持ってろよ。他に見せるわけじゃねえし構わないさ」
アオは驚いた顔をしたが、すぐに視線を落とし、そっとその古びた表紙を撫でた。そこには、夢主の想いが確かに刻まれている気がした。
静かな余韻だけを残し、そっと夢は閉じていった。
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